支配人のコラム <来日した外国の映画人>
2021年01月08日(金)

支配人のコラム <来日した外国の映画人>

支配人挨拶

支配人のコラム <来日した外国の映画人>

2021年の1月になりました。いよいよ2月6日より岩波ホールの再開です。このエピソードもあと二回となり、今月は来日した外国の映画人のことを書きたいと思います。

現在は、キャンペーン用の来日があっても、先方の都合、私共の都合で滞在は3、4泊位という短さで、毎日ぎっしりの取材のほか、交流ができるのはさよならの夕食会のみという状況です。昔は、来日期間はほぼ1週間で、土日は浅草や鎌倉を見学して週明けから取材といったスケジュールでした。ですから、ここに登場するのは、1980~90年代に来日した方が中心です。

さて、私が初めて通訳も担当したのが「緑色の部屋」(1978/公開は1980)のフランソワ・トリュフォー監督です。1980年ころの来日です。この映画のタイトルは、亡くなった親しい人々の写真を飾ってある部屋のことで、内容的に日本の人なら理解してくれると監督は思われたようです。ホテルの一室を借り切って、朝から晩まで取材漬けで、通訳は山田宏一さん。サンドイッチと飲み物が置いてあれば、昼食はいらないとのことでした。自分もジャーナリストだったので、もしマスコミの人が同じ質問をしても、答えを変えるから大丈夫です、というお話でした。

特別上映会の日は、舞台挨拶があったのですが、なぜか山田さんがおりてしまい、新人の私が突然通訳となりました。ぶるぶる震えていると監督は、大丈夫だよ、僕が間違ったことを言ったら、直してくれればいいんだよ、といわれました。で、トリュフォーさんは、私の方を振りむきながらゆっくり話してくださったので、何とか乗り切ったのです。本当に心優しい方でした。

ポルトガルの映画監督パウロ・ローシャさん。ポルトガルのヌーヴェルヴァーグといわれた「青い年」(1963/公開は1980)「新しい人生」(1966/公開は1980)に加え、83年には日ポ合作「恋の浮島」(1982)を公開しました。実はローシャさんはこの合作のために在日ポルトガル大使館の文化担当として日本に何年も住んでおられ、この粋な計らいに、ポルトガルの文化レベルの高さをうらやんだものです。

映画は、世界を巡った後、日本を愛して人生の後半を徳島に住み着き、文章を書きながら生を終えた主人公ヴェンセスラオ・デ・モラエスの物語で、1982年カンヌ国際映画祭に正式出品されました。モラエス役にはルイス・ミゲル・シントラ、妻のコハル役には三田佳子。マノエル・ド・オリヴェイラ監督の弟子であるローシャ監督は、16世紀の大航海時代から、今日に至る西洋と東洋の魂の触れ合いを描き、文学的な香りの高い作品をつくりました。ポルトガル部分は現地のスタッフで作られ、日本での美しい映像は岡崎宏三カメラマンによるものです。

 

*このコラムは、第2、第4金曜日に掲載いたします。次回は1月22日の予定です。

*写真は、パウロ・ローシャ監督と現・支配人 岩波律子。1980年頃、岩波ホール会議室にて。

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