支配人のコラム 最終回<来日した外国の映画人>
2021年01月22日(金)

支配人のコラム 最終回<来日した外国の映画人>

支配人挨拶

さて、このコラムもいよいよ最終回ですが、今回はインドネシアの女優クリスティン・ハキムさんと、アフリカ映画の巨匠と言われたセネガルのウスマン・センベーヌ監督のお話です。

ハキムさんはインドネシアの代表的な女優です。私共では1990年代に、3本上映しました。彼女が同国の19世紀末のアチェ戦争での女性闘士を演じた「チュッ・ニャ・ディン」(エロス・ジャロット監督、1988年)、彼女も製作に参加し、当ホールで大ヒットとなった「青空がぼくの家」(スラメット・ラハルジョ・ジャロット監督、1989年)、そして実際のストリート・チルドレンが登場し、彼女も製作・出演する「枕の上の葉」(ガリン・ヌグロホ監督、1998年)です。

ハキムさんはプライベートでも、子供たちの職業訓練を後押ししており、「枕の上の葉」の上映期間中には、彼女の依頼で、インドネシアの子供たちにミルクを贈る運動「もしもしスラマット・パギ基金」への募金も行いました。

彼女は若いころ、1982年にスタートした国際交流基金の南アジア映画祭で、私共の総支配人髙野悦子と知り合い、友情を育みました。その後、1996年に公開した小栗康平監督の「眠る男」にも出演しています。髙野が2013年に危篤になった時、ハキムさんは東京まで来て、1週間、病院に通い、イスラム教のお祈りをしてくださったのです。

最後に、私の敬愛するアフリカのウスマン・センベーヌ監督です。1984年にようやく念願かなって、「エミタイ」を公開しました。フランス植民地下、強制的なお米の取り立てに対する、ディオラ族の集団的な抵抗を描いています。5年後の1989年には、17世紀にアフリカでイスラム教への改宗を拒んだ人々を取り上げた「チェド」を上映しました。

センベーヌ氏は1980年代に2度来日され、インタビュー、記者会見、付き添いなどを通じて、私も直にアフリカ文化に触れられたことは貴重な経験となりました。最初は作家としてデビューしたのですが、口承文化が一般的なアフリカには文字がなく、お母さんがフランス語の本を撫でて喜んだことや、一念発起して、モスクワに行って映画の勉強をしたこと、また、ダカールの自宅に〈チェド〉(非改宗者の意)ということばを掲げているといったお話が、印象に残っています。

2006年には、娘たちの<女性器切除>を拒んだ母を描いた「母たちの村」の上映を行いました。これは、アフリカ、中東、アジアにも広がっており、なかなか廃止されるのは難しいようです。男性であるセンベーヌ氏は、先ずは父親を説得してゆかないと、とめることはできない、と言っておられました。その闘士も、ついに2007年に亡くなられました。「アフリカ映画の父」であるセンベーヌ監督との出会いは、私にとって忘れられない思い出です。

*「チェド」公開のために来日したウスマン・センベーヌ監督と岩波律子。神保町にて。

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