「ユダヤ人の私」の公開にあわせ、2021年12月19日(日)に開催された、明治大学の水野博子教授の特別レクチャー「オーストリアの記憶をたどる」をまとめました。なお、水野先生の本作に関する小論が、岩波書店の『世界』2022年1月号でも掲載されています。ぜひご覧ください。
皆さま、こんにちは。いまご紹介いただきました明治大学の水野博子と申します。私はオーストリアの近現代史の研究をしておりまして、今年1年はコロナ禍で大変ですが、研究の拠点をウィーンに置いております。今回、たまたま一時帰国中だったこともあり、お声を掛けていただきました。これから『ゲッベルスと私』をご覧になる方もいるかと思いますが、『ユダヤ人の私』と、その歴史的な背景について、少しだけ、お話しさせていただきます。
まずは皆さま、お疲れさまでした。長い映画だったと思いますが、いかがでしたでしょうか? 様々な疑問や感想をお持ちだろうと思います。私自身はこの作品を最初にみたとき、ドイツではなくオーストリアが舞台であること、また、ローカルなエピソードが多いことが印象に残りました。ですので、今日はオーストリアの歴史的な背景について、ご紹介させていただこうと思います。論点を3つに分けて、考えてきました。
1つ目:「ユダヤ人として生きることの意味について」
まずは、マルコ・ファインゴルトさんのことです。この作品は、タイトルにもあるように、主題は、ユダヤ人として生きてきたファインゴルト氏の等身大の姿を描こうとしている点にあると思います。ただ、ユダヤ人といっても、集団的なイメージがあるわけではなく、特にファインゴルト氏の若い時分、映画の前半30分ぐらいをみてみますと、「何をもってユダヤ人と呼んだらいいのか?」と思わせる、曖昧な部分を残す語りが、一つの特徴ではないかと思うのです。日本語の語感の問題もあるかもしれませんが、「〇〇人」と呼んだ瞬間に、あたかも大きな物語、国家とか宗教といった唯一の指標にもとづく同質的な人々の集団、というイメージを持ちがちではないでしょうか。ファインゴルト氏の場合、ユダヤ教徒の家庭に生まれた「偶然的」な事実との向き合い方も含めて、どんな風に「ユダヤ人」として生きていくのかを選択をしてきた人、あるいは、その選択を迫られた人、という点が浮き彫りになるように感じました。
実際、ファインゴルト氏は、1913年の生まれです。ハプスブルク帝国末期の時代で、生まれた場所は、現在のオーストリア領内ではなく、ハプスブルク帝国のハンガリー王国領内のスロヴァキア系の地域でした。ユダヤ系の家庭で、言葉はドイツ語、そして、お爺さんの世代はイディッシュ語を話している。そういう、沢山の文化的属性を持っている帝国の時代に、生を受けました。オーストリア人とか、ドイツ人とか、あるいは日本人といった、一つの指標では表現することができない、人々が複数の文化的帰属性を持っていた時代です。そうしたなか、ファインゴルト氏自身は、オーストリアという小さな国になった後も、ユダヤ教徒として生きていくのだけれども、その成長過程で、ユダヤ教の戒律との付き合い方がだんだん変わっていきました。例えば、値段の高い「コシェル」(ユダヤ教の戒律に従って処理された清浄な食事)について、「そのうち食べなくなった。あれは高いからね……」というエピソードがあったかと思いますが、彼なりに、自分がどう生きていくのか、選んできたのですね。例えば、彼がイタリアに出稼ぎに行っていた頃は大変な不況の時代なのですが、その時の話も、イタリア・ファシズムの時代だったと、ムッソリーニの話で匂わせるぐらいで、「ユダヤ人」であるということは表立って出てきません。彼自身にとって一番印象に残っているのは、大儲けできたことのように思えます。つまり、彼なりの豊かな語り口調で描かれているのは、ユダヤ人、ユダヤ教徒であるという指標が唯一のものではなかった、ということなのだと思います。ユダヤ教の教えも強制的なものではなくて、「こうあるべきなんだよ」というニュアンスで語っておられましたね。そもそも、オーストリアはローマ・カトリック教会の信徒の多い国で、ユダヤ教徒は少数派です。そうしたなか、特に彼が戦後住むことになるザルツブルクは、古い町で、ハプスブルク帝国の頃からローマ・カトリック教会の牙城のようなところなのですが、そこでユダヤ教徒として生きるうえでの生活戦略というか、知恵がついたのだろうと思うのです。
2点目:「オーストリアの政治文化について」
20世紀のオーストリアは激動の時代で、5つの政治体制を経験したと、私たち研究者は総括しています。1つ目は、第一次世界大戦前の帝政期。2つ目は、1920~30年代初めぐらいまでの、議会制民主主義的な第一次共和国の時代。3番目は1930年代前半から後半にかけてできた自前のオーストリア・ファシズムの時代です。これは、1930年代初めの世界恐慌で、だんだん社会が右傾化していく時代を背景に成立しますが、当時、政治の右傾化はヨーロッパのあちこちで起きた現象です。そして、不況を乗り越えられないまま、1938年のナチズム、ドイツの侵攻という4番目の体制を経験して、1945年にもう一度、5番目に共和国になる。そういう流れです。
このなかで、2番目の時代が大事なのです。ファインゴルト氏が、オーストリア人として生活していた時代、ウィーンでは、革新政党(社会民主党)が市政を握ってました。当時も、現代の私たちから見ても、世界中が羨むような、共助、公助の理想というか、そういった社会を実現しようと試みていた政治がありました。革新的で、社会主義的な実験をやっていた社会がウィーンなのですが、他方、国政レべルの連邦政府のほうは非常に保守的で、地方の社会格差もありましたし、農村部ではカトリック保守の力が強いものですから、どうしても、都市部と農村部の社会格差や、価値観の違いなどからくる大きな対立構造が当時の社会や文化を規定していました。
そのほかにも、「オーストリア人とはいったい何か?」という問題がありました。言葉もドイツ語ですし、帝国時代にはドイツ人として生きていましたので、隣のドイツという国との区別がよく分からない。国境線がある点を除くと、客観的な違いが分からないんですね。そういう、ドイツ人か、オーストリア人かが容易に定まらない時代に、大ドイツ主義的な、隣のドイツと一緒になりたいという思想が、オーストリア側にも(ドイツ側にも)ありました。
これらの政治勢力が、それぞれ自前の民兵みたいなものを持っていまして、みんな制服で町中を闊歩して、ちょっと気に入らない別の集団がいると、ケンカを始めて、だんだん銃をもって殺しあう状態にまでなっていくのですが、最後は、1934年の2月闘争というのがありまして、そこで、連邦政府側、右傾化したオーストリア・ファシストの体制が、革新政党の武装集団に激しい弾圧を加えて、政党としての動きを禁止していきます。しかし、そういうことをやっても、不況はなかなか乗り越えられない。社会だけが分断されていくなか、待ちに待っていたのが、「ヒトラーという救世主」となるわけです。
ちなみに、1930年代のオーストリア・ファシズム体制は、国際的に見ますと、イタリアのムッソリーニの支援を受けてなんとかオーストリアという国家の独立を守ろうとした政治体制として評価される面もあります。ところが、ムッソリーニは、国際情勢上、ヒトラーと手を組むことにしたので、オーストリアは見捨てられてしまいます。そして、ナチ・ドイツによる侵攻が自由にできるようになったのですね。ただ一方、ファインゴルト氏が強調していましたが、オーストリアの人々自身が、ヒトラーの訪来を歓迎したことは大事でしょう。ファインゴルト氏自身は、ナチのイデオロギー上、(もはやユダヤ教徒という、いろいろな選択肢のうちの一つとしてではなく)「ユダヤ人」と呼ばれてしまうことになりますが、そういう彼が、イタリア人の雰囲気であの場に行っていたという話に、私も驚いたのですが、大変に冒険的な、彼なりのやんちゃさが、そうした面に出ていると思います。
いずれにしても、ヒトラーが入ってきたオーストリアで、ナチ勢力の側が体制を作っていく。そうしたなか、ユダヤ系の人々は歯ブラシとかタワシを持たされ、道路の汚れを、這いつくばって洗え、といった迫害から始まり、最終的には強制収容所、絶滅収容所に送られていきます。ですので、ファインゴルト氏が、「オーストリアの人々が、何でもかんでも言うことを聞かなければ…」という台詞があったかと思うのですが、彼の怒りですね。それが彼の記憶に残るのです。ひとたび、「ユダヤ人」というレッテルを貼られると、それが合法化され、制度化され、マジョリティの人々がその状況を受容し、実行する側にむかってしまう。そうすると、「ユダヤ人としてのレッテルを貼られた人間」は、そのように生きていく以外、逃げ道がなくなっていくような社会状況でした。
併合からわずか2週間ぐらいで、オーストリアの、ナチからすると厄介な政敵は、収容所のダッハウへ送られてしまいます。ユダヤ系の人たちも、とくにジャーナリストや芸術系といった社会的エリートが送られてしまいました。あっという間にドイツのいわゆるニュルンベルク諸法も適用されていき、ナチ流のイデオロギー的な「ユダヤ人」が、押しつけられていく。そんななか、ファインゴルト氏も逮捕されます。東欧を、偽のIDで何とか逃げていたけれども、捕まってしまい、強制収容所を4つも経験したけれども、何とかして生き延び、106歳まで生きた。これも本当に奇跡だと思いますが……。そんなふうに生き延びた彼が、語り継いでいくことに、大きな意義があるのだと思います。ですが、ファインゴルト氏が命からがら帰って来た後も、まだ闘いは続くわけですね。そして終わらない。
3点目の論点:「1945年以降のオーストリアにとって、ファシズムや戦争の意味とは?」
ナチズムはあくまでドイツから、外から入ってきたイメージを、私たちは持ちがちです。オーストリアも長い間、外から侵略された犠牲者国家であると、自分たちで言ってきたところもありました。そのイメージに近いものとして、例えば、「サウンド・オブ・ミュージック」という映画を、皆さん、ご存知だと思います。大変美しい名作ですが、歴史的にはまずいのですね。オーストリア・ファシズム時代の話で、当時は、そんなに美しい時代ではなかった。実際、第二次世界大戦後のオーストリアは、長い間、犠牲者というイメージを積極的に打ち出し、戦後復興にとって都合の悪いファシズムの過去については、沈黙したり、できれば忘れたいというように、責任免れをしてきたことは明らかです。国際的にみて、連合国がオーストリアは侵略された犠牲国だといったのです。もっとも、日本より長く、10年占領されますので、そんなに簡単には解放してもらえないわけですが……。
ファインゴルト氏も語っていたように、実際、オーストリア国民の多くがヒトラーを歓迎したのは明らかですし、自前のオーストリア・ナチ運動もありました。この運動は地方レベルでは、ドイツ軍が入ってくる少し前からあちこちで政治の実権を握りはじめますので、ナチズム全部が外から入ってきたわけではないのですね。しかし先ほど申し上げたように、戦間期のオーストリアでは、様々な政治勢力が対立しあい、亀裂が走っていましたので、それを修復していくために、また戦後、オーストリア社会として統合していくためには、できるだけ多くの人が、「オーストリア人」として自己同一化できる器のようなものが必要でした。その際、一番役にたったのが、「犠牲者」という意識だったのです。
オーストリア・ファシズムは革新勢力に弾圧を加え、それによって多くの人が亡くなったのですが、このオーストリア・ファシズムの側にいた人間から、その犠牲になった人間まで、全てが犠牲者になってしまいます。これも不思議な話ですが、オーストリア・ファシズムは反ナチで、オーストリアの独立を守ろうとした面がある、と先ほど申しましたが、そのため実際に収容所に入れられていた人もいましたので、ナチズムの犠牲者ではあった、ということなのです。他方、オーストリア・ファシストから酷い目にあった人たちも、ファシズムの犠牲者でした。また、ドイツ国防軍として従軍して戦死した人々、これも大きな社会問題でした。ドイツ国家のために戦ったことは置いておくとしても、たくさんの人たちが戦地で血を流し、遺された家族たちも大変な思いをする。こういう人々も、戦争の犠牲者だということになりました。それから、反ナチ抵抗運動をした人々も、少しいました。真剣に抵抗し、命を落とした人もいたのですね。そういう人たちも全員、「犠牲者という器」に入る。言葉だけの遊びに聞こえるかもしれませんが、本当に、そのように自己同一化していくプロセスがありました。
もちろん、加害者性や共犯者性を問われた人々もいましたので、オーストリアもいったん戦争犯罪者裁判をやるのですが、最終的には、日本の公職追放があまり長く続かなかったように、大物のナチから小物のナチまで、だいたい1950年ぐらいまでには恩赦で許され、免罪され、社会にも復帰する。ですから、元SSだった人たちが、また偉くなっていく、という話も映画の中で出てきましたが、そのように、社会の復興のプロセスが進んでいきました。ついでに言いますと、免罪された元ナチの人たち、私自身は免罪されただけでも良いのでは? と思うのですが、彼らが、かつて受けた責任追及のための措置は、ソ連軍と、ソ連軍を後ろ盾にしたオーストリア共産党の陰謀だ、と訴えました。つまり、ほとんどのオーストリア人は望まなかったような、もの凄く厳しい訴追をするように仕向けられた、受けなくていい処罰をたくさん受けたのだと言って、元ナチの人たちも、自分たちだって犠牲者だと主張する。こうして、国民として、オーストリア人として、犠牲者の器のなかに入ることができるようになっていき、オーストリアの国民はみんな犠牲者だった、という自己認識を作りだしていきました。
そんな状況なので、1945年にブーヘンヴァルトから戻ってきたファインゴルト氏を待ち受けていたのが、地元の人々からの冷たい反応だったとしても、驚くことではないのですね。ウィーンに入れてもらえなかったのにはいろいろな理由がありましょうが、やはり、そうした、自分たちの後ろめたさの部分を一番告発できるのは、追い出され、そして戻ってきた人たち、です。感情の部分でも、利害の部分でも、ユダヤ系の人が就いていたポストに別の人が就いていたり、家に住んでいたりもするわけです。それをやっぱり「返して」とはあまり言われたくない。このように、1950年代は、過去を忘れていく、そんな社会でした。これはオーストリアだけではなく、ドイツもそうでしたし、日本もそうなので、色んな国を比較できれば、と思っていますけれども……。
戦前と戦後では、時代がはっきり分かれてしまうような感覚が強いと思います。ですが、ファインゴルト氏は一流の語り部ですので、戦前と戦後、過去、現在、未来、それらを繋ぐ架け橋の役割を彼自身が引き受け、未来を担う若者との対話というのを重視してこられたのかなと思います。そういう、草の根的な試みの蓄積と共に、オーストリアでも1960年代以降、徐々に、戦前の過去をめぐって批判的な議論が行われるようになっていきました。あまり知られてはいませんが、ちょうど1961年のアイヒマン裁判の時期と前後した頃と思いますが、当時、ウィーンで経済史を担当していた教授がいたのですが、その人物が講義の場で、公然と反ユダヤ主義な発言を繰り返していて、そこにいた学生たちが、「変ではないか」と発言の内容を書き取り始め、それを告発していきます。後に、その告発の立役者となった人物が、2000年代にオーストリアの大統領になったハインツ・フィッシャーです。そのように大学生が中心となり、政治的な、批判的な運動が始まり、いわゆる1968年の動きが起きていって、1970年代には保守政治から、革新政治へと転換していく。1980年代になりますと、大統領選挙戦で候補者として立候補した、元国連事務総長のクルト・ヴァルトハイムが、もとはナチだったのではないか、あるいは戦時中にバルカン半島で戦争犯罪に関与していたのではないか、といった告発を受けて、「ナチの過去、戦争の過去はどうなのか?」 という国を二分する大きな議論が巻き起こります。なんとかヴァルトハイムが大統領になるのですけれども、それが一つの大きなきっかけとなって、「自分たちの過去をどうしたらいいのだろう?」という見直しの機運が高まっていきました。
そういうこともありまして、ファインゴルト氏の語りの努力が、社会の中でじわじわと草の根的に拡がっていきましたし、それが、社会のなかで様々な形で実を結んでいきます。1990年代ぐらいからでしょうか、ウィーンでもそうですが、色んな市町村で、ユダヤ系の人々を焦点に据えたナチの迫害の犠牲者を追悼する記念碑を建てようという動きや、歴史展示をちゃんと書き直さないといけないと歴史家が頑張ったりする動きがありました。
最近ですと、2018年に、政治的にゴタゴタするのですが。まあ、これはほとんどいつものことでめずらしくないのですけれども、オーストリアの歴史の家博物館が英雄広場の、ヒトラーが演説した新王宮の一角にオープンし、自分たちの歴史として、ナチズムも、戦争の過去も含めていくような試みが実現されました。反ユダヤ主義的な嫌がらせも、簡単にはなくなりませんが、例えば、2019年には、ウィーンの中心街でホロコーストの犠牲者についての展示があった際、荒らされてしまったりもするんですが……、でも、それを守ろうとする市民の動きも出てきて、議論をしていく。暴力や言葉の暴力もあるのですが、議論も生まれていきます。
ここのところ、コロナ禍で反ユダヤ主義的な言論が増えていて、大変、危惧されています。これを、ただちに反ユダヤ主義の高まりと言ってしまっていいのかどうか、まだ評価はできないのですが、ただ、反イスラム、反外国人、そういった潮流を許すことになる危険性があると考えるならば、そこはしっかり批判的に見ていく必要があるのかな、と思います。
「過去への批判的取り組み」というのは、ドイツ語では、Vergangenheitsbewältigungという長い単語があるのですが、日本語では、「過去の克服」と訳されますが、克服はたぶんできないと思うのですね。ずっと議論していくし、調整していくし、忘れようという衝動が強くなれば、またそれを押し戻していく。そういう、社会の中の開かれた考え方、そういったものを、ファインゴルト氏が語り続けてきたことの結晶として、引き継いでいければ良いのかな、と思っています。その際、大事なことは歴史の文脈を疎かにしてはいけないのだ、ということで、若い頃の話に30分近く時間を割いているくらい時系列を大事にするこの映画からも、監督たちのそういうメッセージを私自身感じ取りました。さて、しかし、これ以上進んでしまいますとオーストリアだけの話ではなくなってしまいますので、今日は、このあたりで終わりにいたします。
最後に、本作に関する小文を、岩波書店の雑誌『世界』2022年1月号に書きました。今日お話ししたことを、少しまとめた形で紹介させていただいたので、よろしければ、ぜひお手に取ってみてください。本日は、ありがとうございました。