映画評論家の佐藤忠男先生が亡くなられた。かつて、岩波ホールがお世話になった評論家の先生方の中では、長生きをされたと思う。3年位前に最愛の夫人久子さんを亡くされたとき、私は先生の近くまで行って、急いで奥様を追いかけないでください、おそばにいらっしゃいますから、と言ってしまった。夫人は、映画祭などにご一緒に行かれると、同じ映画でも二人で別の観点からみているので、いいのよと言っておられた。
原稿依頼でご自宅にお電話すると、まず久子夫人が応対され何のためにご連絡したのか分からないくらい長話をしたあと、忠男さーん、と声を掛けてくださることもよくあった。
佐藤先生によれば、岩波ホールがオープンする前から、色々と手伝ってくださっていたとのことである。岩波ホールが、多目的ホールとしてスタートしたころも、日本映画シリーズで、小林正樹監督の「壁あつき部屋」や、鈴木清順監督の「けんかえれじい」など何作品もの講師を担当され、ポーランド映画特集ではワイダ監督の「灰とダイヤモンド」で登壇された。
74年にエキプ・ド・シネマが始まってからは、その前半の時期だけ見ても、2作品に一本はパンフレットの「作品研究」のページを担当して下さっている。あまり毎回お願いするのもよくないかしら、と思ってもこの頻度である。試写会の後、いかがでしたか、と先生に感想をお聞きすると安心するし、文章を書いていただけば、自分たちで映画を選択したとはいえ、この作品はそういうことだったのかと、納得してしまう。
ある作品で、たまには違う執筆者に「作品研究」をお願いしようとしたら、その記者の方がそこは佐藤先生のページじゃないの、というお返事だった。え、そうとも限らないのですが・・
かつて、佐藤先生がパーティで怖い顔をして私に近づいてきた。私は後ろの壁にめり込みそうな気分だったが、先生が言うには、あなたが私の原稿をいい、いいとほめるから、読み返してみたら、ほんとにいいんだよ、というお言葉で、ほっとしたものである。愛想のない方なので、とかく怖く見えるのである。
映画界は大切な方を喪った。あの世で佐藤ご夫妻はようやくご一緒になって、睦まじく過ごしておられることだろう。
岩波ホール 支配人 岩波 律子
*インドネシア映画「チュッ・ニャ・ディン」 女優クリスティン・ハキムさんとエロス・ジャロット監督との送別会にて 1990年7月